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横浜境町に住む、森錠太郎氏は、外国商店「亜米利加」で一番の書記で、嘉右衛門の知人であった。
明治十四年春、この森氏が突然の腹痛を訴えて倒れ、方々の医者に診てもらったが、処方された薬を飲んでもいっこうに良くなる気配もない。
それどころか益々痛 みは激しさを増し、ここ数日は食事を摂ることさえ出来ずにもだえ苦しんでいるという。
そこで森氏の母が嘉右衛門のもとを訪れ、
「先生、息子はどうなるのでしょうか。どうかご示唆をお与えください。」
と、嘉右衛門に占断を請うた。そこで一占したところ、得た卦は《山地剥(さんちはく)》の第五爻であった。
《山地剥(さんちはく)》
《剥(はく)は、往くところあるに利(よ)ろしからず。》
『剥(はく)は剥落(はくらく)、剥ぎ取るの意。この卦は初爻から五爻までずっと陰が続き六爻のみ陽という構成であるから、五陰成長して陽を剥ぎ落とし、わずかに一陽を残すだけという卦象と取る。人事をもって言えば、小人の勢いが盛んとなり君子を剥害する時に当るから、君子たる者は進んで事を為すによろしくない。』
五爻のことばは
《魚を貫き、宮人を以って寵せらる。利(よ)ろしからざるなし。》
『五爻は柔順居中、剥をやめて衆陰を率い、上爻の陽に随順しその寵を受ける。たとえれば魚(魚は陰物、衆陰を指す)の頭を刺し貫くようにして、宮女をひきい王の寵愛を受ける貞淑温厚な正后のごとき者であるから、何事につけてもよろしからぬはずはない。』
嘉右衛門は森氏の母にこう話した。
「《山地剥(さんちはく)》はまさに、命を剥(はく)される、剥ぎ取られるという卦です。初爻から五爻まで来ている陰気が上爻に至れば、上爻の一陽は消滅して純陰の卦(坤
・地)と化します。これはすなわち精神消滅して肉体は土にかえるという象意です。
ではありますが、今得た卦は第五爻ですから、すみやかに最善の治療を尽くせば万死に一 生を得ることができるやもしれません。
ではどのような治療をすればよいのかを占ってみましょう。爻辭に
《魚を貫き、宮人を以って寵せらる。》
とあります。これは鍼(はり)治療で病根を貫くということでしょう。私はもとより医学に精通した者ではありませんし、鍼治療に関してはさらに疎(うと)いのですが、ただ易象による啓示のみからこのようなことを申し上げているのです。
お母さん、試みに息子さんに鍼治療を施してみたらいかがですか」と。
母親は答えた。
「はい。そういえば幸いなことに、東京から鍼師の若宮さんという方が横浜の野毛町まで来ておられるということを聞き及んでおりますので、この方に頼んでみようかとおもいます。」
これを聞いて嘉右衛門は、
「なんと。若宮さんですか。いま爻辭に
《宮人を以って寵せらる。》
とあります。その鍼師の姓がたまたま若宮であるというのは、これこそ易占の妙、すぐにその方に治療をお願いするべきです。」
この言葉を聞いて意を決した母親は、すぐに若宮氏に診察を依頼した。若宮氏は森氏の前に座ると、まず体中を撫でさすり、それからいままでの病状・経過等を尋ねた。聞き終わると大いに得心した様子でしばしの沈黙の後こう言った。
「この病気は私が以前に治療したことがあるものです。私が来るのが今一歩遅れていればもはや何をしても手遅れとなっていたでしょう。
これから私が鍼治療を施しますが、2〜3時間で腹の中が鳴ります。これは病気平癒の兆候です。私は以前にも経験がありますから大丈夫だとは思いますが、もし3時間を過ぎても腹が鳴らないときは私にもどうしよう
もありません。」
こう前置きして、若宮氏は森氏に熟練の鍼治療を施した。すると若宮氏の言ったとおり、時間が来ると腹の中が鳴り響き、苦痛はたちまちのうちに軽減した。この後、医師にもこの経緯を話し、その後の治療を怠ることもなかったので、日を待たずして彼の病は治ったのであった。
嘉右衛門もこのことを聴いて鍼治療のすばらしさと、そしてこのような細かな事まで指し示してくれる易の精妙さにあらためて感動をおぼえたのであった。
この話を嘉右衛門が中村敬宇氏に語ったところ、氏も大いにこれを賞賛して
「《魚を貫く》のことばから鍼治療を思いつかれるなどは、余人にできることではありません。あなたの占断には実に敬服いたしました。
また《宮人》という爻辭を得て若宮氏という鍼師が治療をすることになったこと、まことに奇としか言いようがありません。易とはほんとうに精微なものです。
そしてこの卦が変爻すれば五爻の陰が陽になって《風地観》となります。《観》の卦の構成は、(陽・陽・陰・陰・陰・陰)で、これはお宮の神主が用いる幣(へい)の形をしています。
あなたの占いで「若宮」を得て死ぬ寸前の患者が病の淵から這い上がったというのは、神明がここに降りて助けてくれたのに違いありません。『左國易』にもこれに類
する話が載っています。」
氏はこの占断を賞賛してやまなかった。
嘉右衛門は
「普通の人は易を学ばず、学んだとしてもこれを信じきることができないので感悟することがありません。しかしあなたのような方は、その学識は天人の如く、易学にも精通しておられますからこの妙理を理解していただけるのです。」
こう答えて氏の賛辞に謝した。
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